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丸 岡 城


 丸岡城がある福井県坂井市は県北部、福井市の北にあります。
 鉄道ではJR北陸線の福井駅、または芦原温泉駅でバスに乗換えます。それぞれ、約30分で着きます。
 ちなみに北陸線にある丸岡駅は普通列車しか止まらず、しかもバスの便はありませんのでご注意ください。
 車では北陸道の丸岡ICを利用します。

 丸岡城は別名、霞ヶ城(かすみがじょう)とも言われています。城は市の東部、旧・丸岡町(まるおかちょう)の中心部にある小高い山の上に建っています。

 

 

 左の写真は南側から、右の写真は東側から撮影した天守です。右の写真の左側に内部への入口があります。
 見て分かるように、小ぶりな城です。1615年に建てられました。
 1948年(S23)の福井大震災で倒壊し、その後、1955年(S30)に復元され、2003年(H15)に改修され、現在の姿となっています。

 

 

 西側から撮った写真がないのは、崖になっていて、撮影できなかったからです。
 訪問した時間が午後で、晴天の日でした。ですから、全体像の撮影には苦労しました。
 逆光になりましたが、写真を撮ってきました。天守を北東側から撮影しました。右の写真はアップです。

 

 現地にある記念碑には…

  丸岡城天守閣「重要文化財 別名 霞ヶ城」

「天正三年(一五七五)織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期して、豊原寺(現在地の東方約四km)を攻略した。信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原へ派遣し城を築かせた。
 天正四年勝豊は豊原城を丸岡に移した。これが現在の丸岡城となる。柴田勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次等が一時これを支配し、その後、本多成重以下四代の居城となったが、元禄八年五月有馬清純の入封以来、明治維新に至るまで、八代にわたって有馬家の領有することとなった。
 平章館(現在の平章小学校)の創設者、有馬誉純(五代)は文教政策に力を注ぎ、文教の礎となる。
 明治三年三月、版籍奉還後、同四年九月官有となり、さらに民有に移り、明治三十四年八月町有となる。その間、周壕は埋められ、城門、武家屋敷等の建物は売却または譲渡され、現在わずかに天守閣とその附近の石垣の小部分を残存するだけとなった。
 昭和九年一月三十日、国宝に指定されたが、昭和二十三年六月二十八日、福井大震災により倒壊、昭和二十五年八月二十九日、国の重要文化財に指定され、昭和二十六年十二月復元に着手、用材は八十%近く古材を使用し、昭和三十年三月三十日修理復元され現在に至る。
 本城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、通し柱をもたず、初重は上重を支える支台を成す。構架法、外容ともに古調を伝え、屋根は石瓦(笏谷石)で葺き、基礎の石垣は野面積み、これは我が国城郭建築史上、現存の天守閣の中で、最古の様式のものである。

  天守閣の高さ ニニm(七ニ尺六寸)
    面積一階 一三七m2(約四一・四四坪)
      二階  四○m2(約一ニ・一○坪)
      三階  四○m2(約一ニ・一○坪)
   石瓦の枚数 約六,○○○枚
     総重量   七五トン 」

と書かれてあります。クリックすると拡大します。

 

それでは、天守に入ってみましょう。

 

 二階のつくりの案内板です。クリックすると拡大します。

 

  

 二階には当時の城の模型があります。クリックすると拡大します。

 

 

 左の写真は三階のつくりの案内板で、右の写真は歴史についての文書です。クリックすると拡大します。

 

 

 天守の頂上からの景色はご覧の通りです。クリックすると拡大します。
 左上から順番に東(左上)、南(右上)、西(左下)、北(右下)側です。